大師流,小児鍼,月見の鍼,子供の鍼


129年の伝統治療 匠の技を  伝授  する


谷岡賢徳氏の会発足の思いを語っていただきました

大師流小児鍼の歴史

 

大師はり灸療院、初代谷岡捨蔵(明海-明治2359日僧名)が、現在の大師流小児鍼の創案者である。初代明海は、突く・刺す・切るための鍼である三稜鍼を、突かずに「後方に引いた」ことが始まりである。この発想の転換が、大師流小児鍼の誕生となったのである。鋼鉄の鍼を羽毛に変身させて、とても気持ちの良い小児鍼を誕生させたのだ。



 
   
当時、初代明海がしていた大師流小児鍼は、後頭部から肩背部の施術のみであったようだ。現在のように手足も施術するようになったのは、二代目賢太郎からであった。賢太郎は、他の鍼灸院では手足も施術していると聞いてすぐに実行したのだ。「月見はり」を始めたのも、当時どこの鍼灸院でも行われていた風習を取り入れた事が始まりであった。大阪市内を始め近隣の町や村には、一日で何百人も小児を治療する小児鍼専門の鍼灸院が多くあった。健康保険制度が未発達だったため、医師の診療を受けるよりも小児鍼の治療費が格段に安かった時代である。
    

「月見はり」とは、陰暦815日の十五夜に小児鍼をすると健康で生活できるという風習である。大師はり灸療院では、「月見はり」の日に850人もの来院があり、患者の重みで床が抜けた事があるそうだ。これは1回だけの話ではなく3度もあると聞くから驚きである。最後の1回は、昭和37年の「月見はり」だったそうだ。三代目賢徳も施術中の出来事であったため記憶している。

 

 

昭和40年代に入り、核家族化が始まり少子化の傾向もみられ、小児患者が減少し出した。そのころ(昭和45年頃)から小児鍼の講演依頼が時折くるようになった。賢徳は「手の内をあまり見せないように」と賢太郎に釘を刺されたが、より多くの鍼灸師に良い治療法が知れ渡れば、多くの病人を救うことができると考え、広める活動を行った。始めは、手持ちの大師流小児鍼が十数本しかなく、助手が卒業したときにあげる分にも欠けていた。いくら講演しても、道具がなければ実践出来ない。10から20本程度なら作れるという職人に出会ったが、大量に作れる職人はいなかった。十数年後にようやく納得のいく鍼を大量に作ってくれる職人に出会い、安心して講演会を行う事ができるようになった。

 




平成2年に「医道の日本」誌へ大師流小児鍼の連載を開始した。これを機に、新聞・テレビから取材を受けるようになった。現在のように初心者講習会や手合わせ会を行うまでには、様々な活動がもとになっている

       



               

                      当会へお問い合わせ















 大阪府八尾市本町5−2−10 

  谷岡方
  大師流小児はりの会本部
  事務局
  FAX:072−925−2416